小沢村から愛を込めて〜第5回〜
「余白は無ではなく手抜きでもない、有と同等の意味を持つ」
ある西洋のミュージシャンがインタビューでこう答えました。
「日本語で一番好きな言葉は『間』だよ。西洋にはないニュアンスだね。」と。
今回は「間(ま)」についてのお話です。
もちろん西洋でも物と物との間という意味の言葉はありますが日本人が使う「間(ま)」とはちょっと違うと思います。
そしてこれから書く内容はあくまで私が個人的に感じ、調べ(受け売り含む)た「間」についてであることをご了承ください。
職業柄「間」という言葉には以前から気をつけ、また重要だと考えていました。
間って日常生活で使う?
間が悪い
間延びする
間に合う
などなどいくつか聞いたことはあると思います。
日本古来から言葉と言葉の間、動きと動きの間の余白の部分に感情を込めたり、または読み取り「趣がある」とする文化があります。
(起源については民族性などいくつか説はありますが話がデカくなりすぎるのでここではやめておきます。)
伝統芸能の世界、歌舞伎を始め能や落語や俳句、茶道などなどもちろん阿波踊りもそうですが間を重んじます。
「隙間をあえて埋めない美学」とでも言いましょうか。
少し厄介でわかりにくいのは間とは明確な定義がなくはっきりとこれ!と説明できないものであると思います。
例えば日本画の話。
ポツンと月と竹が描かれていてあとは真っ白、つまり余白です。
でもこの白い部分は手抜きで描いてなくて白いわけではないんです。
その余白を「雪」だと想像することによって(作者の意図と同じかどうかは別として)自分なりに想像して楽しむことができますよね?
この余白(間)を感じることができるのが日本文化の素敵なところだと思います。
自分は普段後輩に基礎練習を教える時は「裏(拍)を意識しろ」としつこいくらい言っています。
つまり叩いて鳴っている表(拍)と同じくらい鳴っていない裏拍(間)を意識するかしないかは演奏にも大きな違いがでてきます。
「間」と同じく重要なのは「ニュアンス」ですね。
阿波踊りでの吉野川の演奏で「ドンガドン」と呼ばれる叩き方があります。
メトロノームに忠実に叩くと
ドンガドン ドンガドン
です。
文字にすると伝わりにくいですが
ンドンガドンタッタ ンドンガドンタッタ
と、少しの「タメ」と微妙な強弱を加えることによって表情豊かで膨らみのあるドンガドンが出来上がるわけです。
このニュアンスが聴いた人、観た人に時には「粋だねぇ」「味わいがある」という感情を抱かせるわけですね。
結局「間」とは何?と問われれば正直明確な答えは出てませんが今のとこはタイトルにあるように「余白は無ではなく手抜きでもない、有と同等の意味を持つ、それが『間』。」です。
演奏する側は間を意識して、聴く(観る)側はその行間を読み取れればより一層楽しめるのではないかと思います。
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