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ぞめく心の始まり

昭和32年の8月にパル商店街(当時は高南商盛会)で第一回目の高円寺阿波おどりが開催され、私はその半年後にルック商店街(当時は新高円寺通り商店会)で産声を上げました。
もちろんその当時の記憶はほとんど無いので、第8回(昭和39年)頃から記憶を辿っていきたいと思います。 

と言っても、昭和39年は先の東京オリンピックが開催された年で、当時小学1年生だった私の記憶は、阿波おどりよりも学校の友人たちと聖火リレーの応援に行った事が一番の想い出です。
小学校の授業で画用紙と割り箸で日の丸の旗を作り、路面電車がなくなった青梅街道へ杉八小学校の全校生徒で応援しました。

1954年の東京オリンピック

「高円寺阿波おどり50周年記念誌」によると、オリンピック翌年の第9回(昭和40年)には踊りが青梅街道までの800㍍になったとあり、昭和41年の4月に高円寺辺りの中央線が完全高架化されたとの事です。

私の記憶では、高架化される前の中央線の踏切の所から踊り出し、青梅街道まで踊った記憶がありますので、第9回には間違いなく参加していたと思います。
ですが、ルック商店街の中の商売家(襖紙の問屋・笠井商店)の子供でしたので、もっと小さい頃から踊っていたかもしれませんね。

筆者の幼少時(笠井商店前)

当時の阿波おどりは、パルからルックまでを大声をはりあげながら、大人も子供もただ元気良く踊り通し、それを2回繰り返すと終点です。
(途中で何ヶ所か休憩をいれたような気も?)
終点は青梅街道の現在のみずほ銀行・当時はお菓子屋さんでした。

終点まで来ると商店街の方が、お菓子の入った大きな紙袋(子供だけかな?)とお赤飯、そして銭湯の入浴券を配ってくれました。
当時は高円寺の南口だけでも銭湯が5~6軒はあり、いただいた入浴券は、これらのどの銭湯でも入浴が出来る券です。

筆者・小学2年生頃(新高連)

当時は自宅にお風呂がある家は少なく、私も毎晩銭湯に行っていました。
(夜に親が銭湯代を子供達の分もまとめて支払う)
我家の斜向かいには馬橋湯という銭湯があり、馬橋湯では夕食前には近所の子供達が集まり銭湯遊びするのが日課でしたが、阿波おどりに出た後はこの共通入浴券を使って、友人達といつもと違う銭湯へ探検に行くのが楽しみでした。

この頃には高円寺でも幾つかの阿波踊り連が出来ています。
私は我が家が新高円寺通り商店会に入っていたため、新高円寺通り商店会の連で、二人の兄やお店の店員さん達と一緒に踊っておりました。

当時、中学生で兄貴分だった現在の高円寺・菊水連の浅賀会長と、私の一つ年上の高円寺・華純連の熊木氏達と一緒に、夏休みになると杉六小学校に集まり練習をして8月末の本番を迎えてました。
(親に阿波踊りの練習に行くと言って夜遊びに行くのが楽しかったような?)

※当時(約50年ほど前)の新高円寺通り商店街では、商店会や多くの商店主が中心となり、幾つかの連(『新高連』『ひょっとこ連』『菊水連』『新若連』)が次々と結成されて、私は『新高連』を経て『菊水連』に入りました。
『新高連』は昭和43年頃になくなったようです。
・・なにぶん50年も前の子供の頃(当時10歳前後)の記憶ですので、曖昧な部分はご容赦ください。

筆者(写真右) 中学時代の友人と(菊水連)

中学生になる頃には高円寺の南口に「18㍍道路」が部分的に開通します。
(今の高南通りで、ちょうど「中央演舞場」の所だけが先に開通)
今までの狭い商店街だけの阿波おどりが「18㍍道路」で各連とも少しずつ演舞構成を入れた阿波おどりが始まりました。
『菊水連』でも連凧踊り(一人の曳き手に、十人前後の凧役が連なる演出)などを取り入れた阿波おどりを踊った事が思い出されます。

私にとっての『子供の頃の高円寺阿波おどり』は、学校の友達ではなく近所の友達やお兄さんお姉さん達と楽しい時間を過ごし、学校では教わらない子供から大人までの縦社会を教えてもらい、今では私記憶の中で『楽しい阿波おどり学校』になっております。

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