小沢村から愛を込めて~第6回~
「花火」のスピンオフ的連載?
どうもどうも鳴り物カジです。
リレーblogも第6回目になり今回から不定期で連長が幼少から東京新のんき連結成までを綴るコラム「花火」のスピンオフ的連載として違う角度から見た結成当初の話を綴りたいと思います。
どういった動機で阿波おどりを始めたかも必死に思い出しながら書いてみますのでお時間ある時にお読みください。
はっきりと憶えてないけど高円寺阿波おどりを最初に観に行ったのは1998年前後だったと思います。
たまたま通りかかって「?なんかお祭りやってる?」ってチラ見した程度だったと思います。
それから高円寺阿波おどりという存在やとても盛り上がるという噂を聞き友人と観に行き虜になりました。
観客として毎年参加していた頃。 ただただ呑んで騒いでました。 |
2006年頃。 高円寺阿波おどりは毎年雨が降ってるような印象ですね。 |
連という呼び名も知らず最初はチームって呼んでましたね(笑)
そもそもいろんな連に分かれていることも知りませんから同じ団体の人がグルグル街中を回ってると思ってました。
次の年ぐらいから更に友達を誘い酒盛りをしながら大声で騒ぐ阿呆になってました。
こんなに楽しいお祭りがあるなんて知らなかったし考えてみたら最初から鳴り物ばかり観てたように思います。
自分がドラマーなものでやはり打楽器に興味ありますし単純にそのノレる阿波おどりのお囃子に胸が騒ぎました。
その頃「阿波おどりってどうやったらやれるんだろ?」と漠然と疑問はありましたが実際に行動には起こさずそれから10年近く(観に行けなかった年もある)阿波おどりは自分にとって夏の楽しみの一つでありました。
2009年になって当時のバンドの事務所のマネージャーだったSくんから「阿波おどりやりませんか?」と誘いがありましたが実際に言われてみると「いやいや観るだけで充分だからやるのはちょっと…」とあんなにやりたがっていたのに断り続けました。
それでも熱心に誘ってくるSに根負けして「じゃあ一回見学だけなら…」とここでも何故か渋々誘いに乗りました。
今考えるとSは連立ち上げの為の人数集めに大変だったと思います。
最初に見学に行った時のことは正直よく憶えてません(笑)
ただ大太鼓は俺一人でした。
セシオン杉並の音楽室の真ん中に椅子がいくつか輪になって置いてあり初めて三味線を持った人が数人座って静かに弾いてました・・・
客として観に行ってた阿波おどりの華やかさに比べ連立ち上げメンバーの少なさや全員素人という心細そさから「ほ、ほんとに大丈夫なのかな?…」と不安に思ったのは憶えています。
だから多分最初は全然熱心ではなくそれ以降もたまに顔を出す人くらいの立ち位置だったような気がしますがすぐに大太鼓を叩くのが楽しくなりもっと巧くなりたいと練習に通うようになりました。
初練習(2009年9月22日@セシオン杉並) |
それから何度かのセシオン杉並音楽室での楽器練習を経て本格的に連員集めに動き出しました。
毎年一緒に通ってたミュージシャンやライブハウスのスタッフなどに声をかけまくり第一回の練習には40人くらい集まった。
とにかく観たことないしやったこともないから最初は随分無様だったと思います。(動画撮ってなくてよかった)
2回目の練習になるとだいぶ人数が減っていた。
予想以上に体力的にきつかった為この先を不安視する人、あとはこちらの本気度に対してスタンスの違った方々が結構いたようです。
初めての練習は四時間で手の皮も剥けヘトヘトでしたが居酒屋に場所を移し派手に盛り上がりました。
もしかしたらただみんなと騒いで呑みたかっただけかもしれません(笑)
でも最初のきっかけなんてそんな感じでもいいと思います。
それから正式に「東京新のんき連」メンバーとしての阿波おどり人生が始まったわけです。
今でもたまにその当時の事を思い出しますが発足した頃は全く阿波おどりの知識もなく自分の練習に手一杯で満足いく指導や手ほどきができず阿波おどりの楽しさを味わう事なく離れていったたくさんの友人や知人に申し訳ない気持ちしかないし今だったらきっとちゃんと指導できるのにという悔しさが深く残っています。
だからもしこれを読んでる方がいたらいつでも戻ってきてください!また一緒にやりましょう。
ではまた次回。
この記事へのコメントはありません。